適当に書いたレポートが出てきた話

 

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友達の大学に忍び込んだ時に急に書かされたレポートが出てきたので読み返したら、まぁまぁクソみたいな主張をちゃんと書いていたので今回はそれを皆さんに読んでもらおう。(参照:友達の大学にゲリラで行った話)

 

ドーピングとはどこからがドーピングなのか。ドーピングと聞いて思い浮かべるのはシンプルに薬の投与だ。講義ではドーピングには冷凍保存した自分の血液を試合直前に再び自分に戻す血液ドーピングや他人の尿とすり替える尿ドーピングがあることを学んだ。インターネットで調べてみると、ドーピングとは肉体を使うスポーツ及びモータースポーツの競技で成績を良くするため、運動能力・筋力の向上や神経の興奮などを目的として、薬物を利用したり物理的方法を採ったりすること、及びそれらを隠蔽する行為を指すようだ。しかし私には、不正行為・ドーピングと見なされるものと見なされないものの境目が分からなかった。例えば、筋力をつけるためのプロテインドリンク及び栄養を非常に考慮した食事と、薬の違いは何か。良い成績を出すために良いユニフォームや良いシューズを履くことはどうか。私にとっては、良い成果を上げるための資金を必要とする行為はすべてドーピングに見える。なぜなら、それは純粋にスポーツを愛する、楽しむ気持ちに反する気がするからだ。もちろん、自分の体の健康を維持し、能力を高めるために金をかけ、全力を尽くすプロスポーツ選手にスポーツへの愛がないなどと馬鹿げた批判をしている訳では無い。ただ、それは純粋ではありえないと思うだけだ。

社会的名誉や金銭の授与が絡んでくる時点で人は純粋たり得ない。その人間の醜さは欲望への素直さであり、愛すべき部分だと思うのだが、事実そうである。では、真の純粋なスポーツ愛とは何か。それを1番持ち合わせているのは子供だと思う。もちろん彼らは正確なルールを知らないかもしれない。人々をあっと言わせる圧倒的技術を備えていないかもしれない。フェアプレーの精神どうのこうの関係なく試合運びが上手くいかなかったら喧嘩をし始めることだってあるかもしれない。しかし、そこには純粋にスポーツを楽しむ気持ちがある。小学生時代を懐古してみれば、日々何かゲームを真剣に行い、上手なプレーができたら喜び、言葉を交わさずとも友情を仲間と築いていた。もちろんそこでゲームに勝ったからといって大した名誉(クラスで1番○○が上手いと言われるようになるかもしれないし、そのおかげで異性からモテるかもしれないが)はなかったし、ましてや金銭が関わることなんてなかった。そこにあるのは、ただ楽しいからやるという極めてシンプルな動機と勝ちへの執着だけだった。

オリンピックは、世界のトップレベルの選手が競い合い、互いを高め合う場であり、選手だけでなく国民もスポーツの渦に巻き込む素晴らしい祭典だ。言うまでもなくそこには“金が成る”。選手への報酬はあってしかるべきで、オリンピックが国の経済発展に大きく寄与していることは間違いない。しかし、最も根底にあるべきで、大切にすべき精神はスポーツへの愛だと思う。スポーツへの愛は非言語的だからこそ国を超えて共有できるものであり、上手・下手に関わらず持つことが出来るユニバーサルなものである。オリンピックのビジネス化が進む現代、社会的名誉や金銭のためにスポーツが使われがちだが、その根底を失うべきではないと思う。そして、その根底を1番強く支える、子供達が安心してスポーツができる時代であって欲しいと願う。

 

 

受けたこともない初授業であってもちゃんと真剣に取り組み、頭の悪い主張を無理くりレポートの形にして、なんとか書き上げたタマ・チャン。

ちゃんと読まれるとちゃんとキモイ文章を書いているので読むならザッと読んで欲しい。と今言っても遅い。めちゃくちゃ読み込んだ奴がもしかしたらいるかもしれない。

 

ちなみにいくらタマ・チャンのブログがフリー素材とはいえ、剽窃しようとしてる方、こんな文章を盗作したって意味は無いと早めに気付いてください。まぁ参考文献の欄にちゃんと以下のように表記するなら可とします。

               タマ・チャン「適当に書いたレポートが出てきた話」タマ・チャンのプラタナス,2020年 (最終閲覧日:〇年〇月〇日)

はい。お分かり頂けたでしょうか。適当に書いたレポートってバレますし、すごく筆者の名前とサイト名がアホっぽいです。から、やめましょう。

 

このレポートが評価されることは無かった。

しかし、ようやくこのブログで日の目を浴びることができたのだ。

 

 

もう私の役目は終わったよ、と言いたげにタマ・チャンを見つめるレポート。

「いいよ、さようならしよう」

そう言うレポートの声はどこか切なく、どこか凛としている。

 

東京都指定のゴミ袋の中、レポートの目から零れ落ちた一筋の涙。

タマ・チャンのことをいつも思ってたよ、そんなレポートの気持ちはタマ・チャンに届いていたのか否か。

 

タマ・チャンは何も語らない。

自分の心に空いた穴に気付いてしまうから。

 

タマ・チャンは何も語らないのだ。

 

 

どうでしたか?

皆さんの目には今涙が溢れていることと思います。

 

以上、直木賞作家タマ・チャンでした。