ジョーカーの話と真面目な話

 

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 初めに言っておくが、今回のブログは題の通りクソ真面目だ。interestingではあるかもしれないが、決してfunnyではないので読み始める前にそこのところご理解いただきたい。何のBokeもないしOchame-saもない。

 

 そして映画『ジョーカー』のネタバレを含んでいるので読者の方はその点に留意していただきたい。含んでいるというよりもネタバレでしかない。

 これから話す『ジョーカー』の解釈は主観的なものに過ぎずあくまでもタマ・チャン的な見解である。ちげぇよ💢とか言われてもごめんけど知らんし、なんならタマ・チャンもこの解釈が正解だとは思っていない。

 だから、ゆるりと優しい気持ちで読んでほしい。

 ちなみにタマ・チャンはジョーカーを3回見た女である。

 

 こうしてタマ・チャンが何よりも先にちゃんと注意点を挙げているのにも関わらず、後でこれらに関してクレームを入れてくるような輩はじゃんけんで後出しするような卑怯者もしくは最初はグーの段階でパーを出し無意味な大喜びをする愚か者と見なす。

 

 荒んだ社会がジョーカーを作った。そう言ってしまえば終わりなのだが、そう簡単にまとめられる話ではない。

 もし一文でまとめるならば、私はこう言いたい。夢を諦めなかった男が社会に抑圧され蔑ろにされ存在を認められず不特定多数の悪意に善意を壊されてジョーカーになった。

 

 アーサーが劇中で犯した殺人は全部で4件ある。エリート会社員3人、母親、元同僚、憧れのコメディアン。

 エリートを殺した時、アーサーはきっかけと気づきを得た。その衝動的な殺人がジョーカーになるための扉を開けた。しかし彼は人を殺すことを快楽の一部として認識したのではない。銃という武器を介していたものの、自分を笑い者にした相手を見返したという快感、圧倒的弱者であった自分が力を手に入れた快感を得たのだ。またそれによって、殺人を犯す、人を傷つける、加害する、一方的であっても他人の人生に影響を与えることで自分の存在が初めて認められたのだ。しかもその殺人が「エリートに制裁を与えた貧困層の救世主」として崇められたから余計に彼の自己顕示欲を満たした。初めて得られた「生きているという実感」が彼をジョーカーに走らせた。この時ジョーカーを崇めている街の人々が元々アーサーを邪険にしていた人々だったと考えると皮肉でもある。

 母親を殺したとき、アーサーは過去の自分と決別した。彼には母親を庇護する者としての自負があった。母親の生活はアーサーの献身により成り立っており、周囲の人々との関係が希薄で孤独な彼を必要としているのは母親だけだった。少なくとも彼は母親が彼を必要としている、愛情を受けていると信じていた。重大かつ辛辣な現実に気づくまでは。実際のところ母親がアーサーに対してどのような感情を抱いていたのかは分からないが、彼は母親からの愛情を信じることができなくなった。そして母親を殺すことで今まで母親に抱いていた愛情、裏切りを受けた悲しみと決別したのである。母親はアーサーの人生の中で最も関わりが深い人物だったが、母親が居なくなった今〝アーサー〟を知る人物はもはや存在しなくなったのだ。

 同僚を殺したとき、アーサーは強さと確信を手に入れた。弱者を見下していた、彼の不幸の引き金を引いた、そして自己保身のために彼を裏切った同僚。彼を死によって屈服させることでアーサーは強さと自分がもう弱者ではないという確信を得たのだ。社会において無力なアーサーが弱者でなくなるためには、法外手段に訴えるより他はなかったところがより悲劇的である。

 そして憧れのコメディアンを殺したとき、アーサーはいなくなった。

 

 私の中でのジョーカー像は、混沌を好物とし破壊を楽しみ、人々が悪に堕ちるように仕向け人間の弱さを嘲笑う犯罪者だった。

 しかし今回描かれたジョーカーはどこかに憂いと焦りを孕んでいた。承認欲求を満たしたいというエゴと愛情への渇望が垣間見られるからだろうか。

 

 彼を社会で生きづらくした最大の要因は精神疾患と障がいだった。それらは生活で彼の中について回り離れることはなかった。

 心を痛めた状態、精神を病んだ状態で「普通」であることを要求されるのがどんなに辛いことか。精神病などない、普通の人のように振る舞え、と。

 精神を病んだ時、周囲はその人の気味の悪さや壊れてしまいそうな繊細さを恐れて敬遠する。その距離感をヒシヒシと感じた時に、周りの目がそう物語っている時に、私達はアイデンティティを見失う。周囲の視線を感じずには生きていけないところが社会的動物である人間の弱さだ。

 彼は普通の人と〝ズレ〟ていた。コメディアンになることを望んではいたものの、彼の笑いは常人に理解されるものではなくむしろ笑い者にされ、それが彼の自尊心を傷つけた。実力主義の社会では自分の予想と他人の評価が釣り合わないことはよく有り得るが、アーサーは人生のたったひとつの楽しみであり拠り所であった夢を邪険にされたのだった。

 彼の笑い声と笑顔が物語る悲痛さは見るに耐えない。

 最も切ないのは彼が自分に嘘をつき続けていたことだ。泣きながら笑う、泣いている自分に嘘をつくように笑いの仮面を被る。仮面という言葉が象徴するようにその笑顔はあくまでも仮であり偽でありその下には悲しみや闇が宿っている。しかし仮面をかぶり続けるジョーカー、道化師となった今、彼がその闇をさらけ出すことは無い。

 アーサーがただ悲劇に打ちのめされるのではなく、HAPPYを追い求めることを諦めなかった、夢を諦めなかったというところが彼の人間らしさ及び切なさを一層際立たせていたと私は思う。

 

 もし誰かから優しさを与えられていたら、きっと彼はジョーカーにならずに済んだ。

 彼をジョーカーたらしめた1番の苦しみは誰からも必要とされず、愛情を受けなかったことだと思う。自分に価値がないという感情が彼を極限状態に追い込んだ。一種の自暴自棄でもあると思う。

 恋愛感情を抱いていた相手との幸せな思い出は脳内での補完に過ぎなかった。その幻想を抱くほど彼は貪欲に愛情を求めていた。子供が母親の愛情を求めるように。

 

 この映画を見て考えさせられたのは〝HAPPY〟とは何か ということだ。

 HAPPY とは自分らしく生きられること、生き生きと生きられること、愛情を受けること、必要とされることだと私は思う。

 一見ジョーカーのように残虐行為に走ることは幸せとはかけ離れた行為に感じられる。しかしアーサーはジョーカーになって初めて貧困層のシンボルとして崇められ必要とされ、自分を偽ることをやめることができた、つまり幸せになることができたのである。自然で生き生きとした笑顔を見せたのもジョーカーとして生き始めてからだった。

 

 そう考えると幸せであることが正しいことかどうかは分からなくなってしまう。喜劇が主観に過ぎないとジョーカーが劇中で述べたように、幸せも主観に過ぎないのかもしれない。そうなると永遠に万人の幸せは実現され得ないのかもしれない。それはなんだか寂しいし心が痛い。虚無感が私を苛む。

 しかしそれでも私は周りの皆に幸せであってほしいと思う。もちろん相当な綺麗事だと分かっている。けれど、自分の価値を認められずに苦しむことがないようにいてほしいと思う。だから愛を振り撒く人間でいたいし人を積極的に肯定できる人間でいたいと常日頃思っている。私が唯一誇れる長所である、人の長所を見つけることができるところ。それをこれからも大切にしていきたいしそれで誰かが救われた気分になることを信じていきたい。(おっと、醜い自分語りが出てしまいました、失敬!)

 

 ジョーカーが生まれた社会と今私達が住む現代社会に共通するのは、人々が目まぐるしく変化し時間や義務に追われる毎日を過ごし、なりたくなくても自己中心的でないとやっていけない世知辛く生きにくい世の中であるということ。悲しいことだが、他者から意識的か無意識か向けられる冷たさに苦しむことだって少なくない。そしてさらに悲しいことに、自分だって無意識に冷たさを他者に向けている当事者である。

 しかし今この文を読んでいる皆さんには、そんな時でも向けられる優しさがきっとあると思う。存在を認めてくれる誰かがきっといると思う。少なくとも私はこの文を読んでくれている皆さんに感謝しています。

 

 どこまでが妄想でどこからが現実かという解釈が想像の域を出ることはない。もしかしたら全てが幻想でジョーカーが思いついた〝ジョーク〟なのかもしれない。

 そう思うと、私は世の中と人間の不確実さ曖昧さ掴み所のなさに目が眩みそうになる。しかしそれらの明確な区分、時系列が曖昧なのもこの映画の魅力である。その点がシェイクスピア作品となんだか似ているからどハマりしているのかもしれない。

 どこからが夢でどこからが現実か。今それを考えている自分が存在しているのは夢の世界か現実の世界か。誰が確信を持って言えるだろうか。

 最初に述べた通りこの文はあくまでも私の個人的主観的感想であるが、この『ジョーカー』という作品は様々な解釈を許す要素を多く含蓄しておりそのどれもが複雑に絡み合っているからこそおもしろい。そしてそこに正解はない。

 

さあ、ここまで読んだ皆さん、普段のタマ・チャンとのギャップに仰天し、新たなタマ・チャンの魅力にどハマりしていることと思います。

とにもかくにもこんなクソ長いお恥ずかしい文章、最後まで読んでくださった皆さん、ありがとう。

 

愛を込めて

タマ・チャンより

 

P.S. ジョーカーのスーツめちゃくちゃ欲しいので買ってください。